2009年11月15日日曜日

01219■「扶桑略記」とは何かその批判



十和田火山の有史時代の噴火記録の根拠となるものに「扶桑略記(ふそうりゃっき)」(915)があります。扶桑略記とは何でしょうか。扶桑略記を根拠としている学者がいますので。

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1、扶桑略記とは

扶桑略記(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。
寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧皇円(こうえん。法然の師)が編纂したとされるが、異説もある。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存する。
内容は、神武天皇より堀河天皇の寛治8年(1094年)3月2日までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記している。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つであるが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われる。『水鏡』・『愚管抄』など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に与えた史的意義は大きい。
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2、「扶桑略記」は信用できない


「納得できない「逆説の日本史」(1)」より
文字通り「はじめに」お断りしておきますが、『逆説の日本史』についての私の疑義をまとめるにあたって、その中心を、自分として最も関心があり、とりあえず読み終えている第2巻(古代怨霊編)に絞らせていただきます。
これについては、「一部だけを取り出して…」という批判もあろうかと思いますが、このシリーズは大変な大作でいまだに完結していないため、本来の「全体」を批判することは不可能です。また、このシリーズが本来、週刊誌への連載であることを考えれば、極端に言えばその1回ずつが独立した論考と見なされてもやむをえないでしょう。
この本(以下『逆説2』と略記します。頁数などは文庫によります)は、確かに面白く書かれています。
これが歴史推理小説なら別に構いません。
しかし『逆説2』を読んだ人は、この本に書かれていることこそが正しい歴史であり、歴史家や歴史教科書の内容の多くは"嘘っぱち"であると信じてしまうのではないか、それが問題だと思います。







批判するメディアもない中で、国家が一方的に編纂した、しかも現天皇(元正)のお祖父さんのことを、皇族である息子が編纂責任者としてまとめた本-そういう本に真実が書かれていると、頭から信じている人がいたら、よほどおめでたいと言わざるをえない。
ところが、世の中にそういう人が実在するのである、それも大勢-言うまでもなく、それは歴史学界の人々である。
こういう人々は『日本書紀』の記述を頭から信じ込み、『扶桑略記』などには目もくれない。
(P.216~217)

確かに、「歴史学界の人々」は『扶桑略記』よりも『日本書紀』の方が信頼性が高いと見ている、とは言えるでしょう。
しかし、それと「『日本書紀』の記述を頭から信じ込み、『扶桑略記』などには目もくれない」とではかなり違ってきます。ここまで言うなら、それは間違いです。
例えば井沢氏は坂本太郎をくりかえし批判されますが、坂本には『扶桑略記』について、どういう所が優れており、どういう点が信用できないかを考証した文章があり、彼の全集に収められています。短いものですが、これを見ただけでも、坂本が決して安易に『扶桑略記』を扱っているわけではないことが分かります。




(略)古代の、重要な機関はすべて国家が握っていて、ジャーナリズムも民間の研究機関もない時代に作られた「史書」に、当事者の天武のことが正確に書いてあると考えたら、そう考える方がおかしいだろう。
これは、学問以前の、人間としての常識ではないだろうか。
ところが、学者先生の中には、こういう常識がわからず、あくまで「書紀」を信ずるという人が多いのである。それは「古い史料の方が、より正確である」という歴史学の基本原則(?)を、なんとかの一つ覚えのように繰り返すからだ。
(P.221~222)

「なんとかの一つ覚え」「人間としての常識(がわからない)」という、相手の説ではなく人間性を非難する…こういう姿勢の著書が広く支持されるのはそれ自体嘆かわしいことです。この本を信じた読者は、もはや歴史学者の言葉には耳を貸さないことになるでしょう。
このような姿勢は、我々一般の読者や歴史愛好者と研究者との間に新たな溝を刻む、益少ないことだと考えます。
では、この本の内容は、これほど人を非難することができるほど完璧なものなのでしょうか。それが、そうでもないのです。
私が『逆説2』を読んで感じたことは、大きくは以下の4つです。
 1.史料や論文等を引用する際、大事な部分が抜けていることがあります。
 2.筋の通らない論証が時々見られます。
 3.時代差を考慮しない断定をしている場合があります。
 4.その他、調査不足・検討不十分などが目立ちます。
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3、「扶桑略記」醍醐天皇 抜き出し
醍醐天皇の項目の日記はこちらです・・・・

【扶桑略記】醍醐天皇24より
延略五年二月十日辛未。信乃國飛騨驛到來。依上野介藤原厚載為上毛野基宗等殺害也。
○三月一日辛酉。日食。廢務。
○四月七日丁酉。有擬階奏
○十二日壬寅。三箇日。於十一社。令仁王經。祈諸國京師疫
○卅日庚申。更衣從五位上藤鮮子卒。是齋内親王母也。
○五月六日丙寅。為疫癘百口僧仁王經御讀經停止。是淑景舎顛倒打殺七歳童穢也。
○廿一日。致仕大納言源湛卿薨。【七十三】
○廿二日。右衛門督藤清經卿薨。
○廿八日戊子。被囚廿三人。依旱也。
○六月廿日。於大極殿。臨時御讀經。祈雨也。○廿四日癸丑。於神泉苑。自今日五箇日。修請雨經法。又祈五龍
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○七月五日甲子。卯時。日无暉。其貌似月。時人奇之。
○十三日。出羽國言上雨灰高二寸諸郷農桑枯損之由
 (これが根拠となる日記の部分です・・・26/28にあります)
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○廿四日癸未。被九社奉幤。依祈雨也。
○八月十七日。右中辨藤良基召外記仰云。昨日烏咋抜奏時杭。令陰陽寮占者。
○廿三日辛亥。外記京中樹木華并天下赤痢時御祈之例勘申。
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4、平安噴火の根拠説(現代語訳)

TowadaHistoryさんは
延暦寺の僧侶によって平安時代に書かれた『扶桑略記』(ふそうりゃっき)の延喜十五年(915年)七月の条に,
・「915年8月18日の朝日には輝きがなく,まるで月のようだった.人々はこれを不思議に思った.
・8月26日になって,灰が降って二寸積もった.桑の葉が各地で枯れたそうだ,と出羽の国から報告があった.」
(日付はユリウス暦に直した)という記述がある.これは十和田湖のもっとも新しい噴火を記録したものと考えられる.
(上記が本文です・・・)


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(まとめ)
・必ず両論があるものですから。しかしこの程度の日記で日本の歴史が変えられるのでしょうか???
・東北の歴史封印のための「田村麻呂伝説」とのかかわりも調べたくなりました。
・まさか「扶桑日記」がネットで簡単に見られる時代が来るとは考えていなかった人もいるかも知れません。
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