2009年11月7日土曜日

01218■大湯環状列石発掘調査報告書第一号火山灰層序


大湯環状列石発掘調査報告書第一号には、大湯環状列石周辺の地質・・・特に火山灰層序について・・・が記されています。
1、1953年文化財保護委員会調査
 大湯環状列石については、すでに文化財保護委員会によって「埋蔵文化財発掘調査報告(1953)」が出され、環状列石の堆積的観察という項目の中で、特徴ある火山灰と列石、異物含有黒土についてふれている。さらに本地域の層序関係、堆積物の生成年代についても考察を試みている。これらは当地域に関する初めての体系だった調査である。

2、その後の多くの調査報告踏まえたまとめ
 
 以上の研究をふまえ、この地域の火山灰層は下表のようにまとめることができる。

         第2表 遺跡付近の火山灰層序

No
名   称
14年代値
堆積様式
角閃石の有無
毛馬内軽石質火山灰層
1280±90
火砕流(軽石流)
×
大湯軽石質火山礫層
3680±130
降   下
×
申ケ野軽石質火山灰層
8600±250
降   下
鳥越軽石質火山灰層
12000±250
火 砕 流
高市軽石質火山灰層
25850±1360
火 砕 流
×
小ケ田軽石質火山灰層
火 砕 流?
×
小坂軽石質火山灰層
火 砕 流



①小坂軽石質火山灰層

 「報告」では全くふれられていない火山灰層であり、鹿角における第四紀層の中では最下部にあり、次のような産状を呈する。
 この火山灰は小坂町西方の小坂川をはさんで、両岸の段丘構成層として分布し、小坂鉱山 事務所付近や山手~内の岱にかけて露頭、小坂高校付近にも散在する。
 色は灰白~赤灰白色(ピンク)で成層した形態をとらず、急激に凹地をうめて堆積し、定着した産状を示す。固くしまった印象であり、石英、角閃石が目立つ。全般に風化しており輝石は変質した形状を示す。
 起源マグマ組成は石英安山岩質で、十和田火山灰層序の比較(第2表)で、中川、他(1972)の分類によると第二期噴出物とみなされるが、詳しい年代は不明である。

  

②高市軽石質火山灰層

 小坂町東方のあけぼの台への露頭で小坂軽石質火山灰層を覆う河床礫層を明瞭な浸食面でおおう。分布は鹿角盆地全域に及ぶが、大館、鷹巣の各盆地および、その周辺地域に散在してみられる。
後述する鳥越軽石質火山灰とともに十和田火山起源のものでは最大規模の噴出物で多くは鳥越火山灰に覆われ、場所によっては欠け、連続性はよくない。盆地内では高市から小坂にかけて広く分布し、毛馬内付近では水中淘汰をうけた二次堆積物が上部で発達する。急激な火砕流堆積物の供給、それにともなう一時的な“せきとめ湖”の形成があったものと考えられる。この二次堆積物の最上部は暗緑~黒色の粘土質層で、陸化後、相当長期間湿地や沼地であったと推定される。
「報告」では礫砂泥層(河川、湖盆堆積物)と記載されているが、二次堆積物に相当するものと考えられる。


③鳥越軽石質火山灰層

 高市軽石質火山灰層と産状、外観ともに区別しにくいが、現在の盆地内における主要な段丘すなわち、環状列石のある風張台地を含む鳥越面、関上面(内藤1966)の分布に一致する。この層の厚く発達する関上付近の段丘は大湯付近を扇のかなめとして扇状地の形態を示し、火砕流が旧大湯川(谷)沿いに流れ下り、堆積し、隆起(?)によって河床の下刻により侵食され段丘が形成されたと思われる。
この層にも二次堆積物をともなうことがあり、高市火山層と同様、一時的な“せきとめ湖”の形成があったとみなされる。
「報告」(1953)では、「段丘、堆積物は礫砂の分級淘別された水成層で偽層を呈し(二次堆積物のこと)、下位の十和田石層を不整合におおい・・・」とあり、この間に長い時間の経過を考えているが、産状、構成物などから一連のものと考えたほうがよさそうである。

 一次堆積物は無層理、灰白色の軽石を含み、炭化木片をしばしば混入する。本層の年代は約12,700±270年前と考えられるが、十和田カルデラ形成にともなう一連の火山噴出物である。この軽石流の大噴出後山体部は数本の断層に沿って陥没し、ほぼ現在の十和田湖の原型に近いカルデラがつくられた。


④申ケ野軽石質火山灰層

 鹿角盆地では鳥越面、関上面を構成して広く分布する。「報告」の中の下位火山灰層と区別されたものに相当し、地表面に近いためか、全体的に黄褐色を呈す。暑さは場所によって異なるが1m以下で、上部は軽石を多く含み、下部は石質岩片の多い部分から成る。
 中の湖がつくられた第三期の活動(大池、斉藤1984)で、十和田湖周囲には瞰湖台軽石を、周辺の山麓部には南部軽石を堆積し、鹿角地方には申ケ野火山灰を降らせたに違いない。


⑤大湯軽石火山灰層

  「報告」の中で“大湯浮石層”と命名され、上位火山灰層として、遺跡の年代決定に重要な意味を持つ軽石質降下火山灰層で、十和田火山に近いほど粒径が大きく厚くなり、角閃石を含まず、二枚の黒土中にうすく連続する。
  後述する毛馬内軽石質火山灰層と重鉱物組成が共通することなどから、両者は同一火山活動による降下物と火砕流堆積物である。


⑥毛馬内軽石質火山灰層

 米代川流域の最下位の河成段丘を構成し、能代平野まで連続して分布する。主として灰白色の軽石質火山灰で、場所によっては大湯軽石質火山灰層をおおう産状を示す。風張台地の段丘面よりも下の集宮付近では、“大湯浮石層”の上にかぶさる形で認められ、降下火山灰のあとで火砕流(毛馬内火砕流)が堆積したものと考えられる。
 一般に毛馬内面を構成するが、それより高い中間面にまで乗り上げた形で部分的に見出される。
・大池(1972)によれば、この噴出物は十和田火山最終のもので、噴火は約1,300年前におこり、十和田a降下火山灰、前述した“大湯浮石”などと共通点が多く同じマグマ起源としている。 
・町田(1981)はこの活動は有史時代の10世紀に発生したとし、この噴火を推定する降下の記録としては、扶桑略記(915年)に7月13日とあると述べている。
・大池、斉藤(1984)では毛馬内火砕流は古文にその災害の記録も残されているが、その噴出時期はほぼ十和田b降下火山灰と同時期のものとしており(約2,400~1,400年前)、時間的に幅をもたせている。

・いずれにしても「報告」第5節、火山灰、特に大湯浮石の噴出源という項目で示唆したように、噴出源は森吉山や黒森火山ではなく、十和田火山の「中の湖」火口湖の湖底噴火という考えは、その後の研究によってほぼ裏づけられた形である。

・ただ噴出年代については、遺跡との関係から縄文後期から奈良時代と考察し、その後、渡辺(1966)は炭化物のC14年代測定法によって、3680±130年と推定したが、その後の新しい考えはいずれも当時予測したよりは新しいという結果になっている。  (鎌田 健一)


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第2図 風張台地の柱状図(野中堂採石場に見られる火山灰層序)

















第3表 十和田火山層序の比較

















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