2009年6月15日月曜日

01314■錦木塚伝説





今から千数百年程前、都からきた狭名大夫(さなのきみ)という人が錦木あたりを治めていた。

それから八代目の狭名大海(さなのおおみ)には美しい娘がいて、名を政子といった。姫は狭布(けふ)の細を織るのがとても上手であった。

その頃、草木の里に
錦木を売るのを仕事にしている若者がいた。ある日若者は赤森の市で政子姫を見て、心の底から好きになってしまった。

当時、男は女を妻にしたいと思うと、その女の家の前へ錦木を立てるならわしがあった。それを家中へ取り入れると嫁(とつ)いでもいいということであった。
若者は錦木を姫の家の前へ雨の日も、大風の時も、吹雪く日も毎日立て続けた。政子姫は機織りする手を休めてそっと男の姿を見ているうちに若者が好きになっていたが、錦木は取り入れられなかった。

父が身分の違いを理由に反対したためであった。もう一つのわけもあった。五の宮嶽の頂上に大ワシがすんでいて、付近の村から幼い子たちをさらっていった。或る時古川で托鉢(たくはつ)に立ち寄った旅僧は、若い夫婦がわが子を失い泣いていたので、そのわけを聞き、鳥の毛を混ぜた布を織って着せれば、ワシは子どもをさらえなくなると教えてくれた。
鳥毛をまぜた布はよほど機織りが上手でないと作れない。政子姫はみんなから頼まれ、親の悲しみを自分のことのように 思い、三年三月(みとせみつき)の間観音に願をかけ身を清めて布を織っていたのである。そのために嫁にくという約束は出来なかった。

若者はそうとも知らずにあと一日で千束になるという日、女の家の門前で降り積もった雪の中でかえらぬ人となった。姫もそれから間もなく若者の後を追うようにこの世を去った。
姫の父は二人をあわれに思い若者の亡骸(なきがら)を貰(もらいうけ千束の錦木といっしょに一つの墓に夫婦としてほうむった。その墓を「錦木塚」といっている。


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