2009年8月25日火曜日

03021■エミシとエゾとアイヌ










季刊 東北学」 第16号より、東北歴史博物館館長の工藤雅樹さんの「蝦夷の系譜」からまとめてみました。








1、蝦夷・エミシ・エゾ・・読みかた
蝦夷という語はふつう「エゾ」と読むが、古代にはまだ「エゾ」という読みはなく、蝦夷と書いて「エミシ」と読んだ。「エゾ」とう読みの出現は平安時代後期である。
「エミシ」という語のもともとの意味は、大和の人々にとって、自分たちの勢力に服していない東方の人々のことであった(西方に人々については熊襲や隼人という語があった)。つまり東方の「まつろわぬ人」ということである。したがって、日本古代国家の領域の変化とともに、「エミシ」とされた人々にも変化があった。


2、エミシの時代変動

①5世紀以前
最も早い段階でエミシとみなされたのは、主として東日本の住民であった。この段階の「エミシ」は時に大和の勢力と戦うこともあった東国人をひろく意味していた。
・「エミシ」には、強い人たち、恐るべき人々、故にいささか敬意をはらうべき人たち。「毛人」と書いた。


②6世紀~7世紀前半
大和勢力と地方との関係は支配する者とされる者という関係に変わる。


③7世紀後半
日本海側では信濃川・阿賀野川の河口以南、太平洋側では阿武隈川河口以南が国造制によった。
したがって、国造制の範囲外の人々が「エミシ」と呼ばれた。周竜は仙台平野など東北地方中部。

④大化の改新から平安時代初期
国郡制が施行。陸奥国と出羽国が置かれた。盛岡市と秋田市を結ぶ線以南に、多賀城、胆沢城、秋田城が造営され、政府軍の大軍が組織され、蝦夷の軍との戦いが行われた。
普通に、古代の蝦夷(エミシ)という場合は、この段階及び次の段階のことである。


⑤平安初期から平安末期(平泉・藤原時代)
秋田市と盛岡市のライン以北が蝦夷の地域である状態は同じく続いた。
この段階での蝦夷(エミシ)は、秋田市と盛岡市を結ぶライン以北の本州及び北海道の住民である。
政府の直接支配の外の住民という「エミシ」の語義は失われていない。が異文化の担い手である北方の異族という側面が強くでてきた。

この段階の末期に「蝦夷」の読みが「エミシ」から「エゾ」に変化し、後には「エゾ」は北海道の住民をさす語として定着するが、初期の「エゾ」には東北北部の住民も含まれており、むしろ「エゾ」の主体は東北北部と道南の住民であった。


3、大和朝廷の支配は稲作農耕民だけ
ただし朝廷は、稲作農耕民集団が主体でない地域を支配する術を知らなかったし、律令制、王朝国家でもなお、非水田稲作民を主体とする地域をも支配機構に組み入れることができる国家形態は想定外であった。
平安時代末まで、東北北部が制度的には朝廷の直轄支配の外にある蝦夷(エミシ)の世界であったのも、鎌倉時代以降も北海道が幕府の直轄支配地ではない「蝦夷地(エゾ)」であったのも同じ理由である。

しかし、稲作農耕民集団が主体ではない、または稲作を行わない蝦夷の世界にも、縄文文化を受け継いだ、安定した生活を営むことができる豊かさがあった。そして各地域には、交易品としての価値が高い、地域の特産物があった。東北北部の砂金・馬はいうまでもなく、北海道を含む地域の昆布・アシカや
オットセイなどの海獣の皮、熊野毛皮や胆嚢、鷲やタカ、テンなどの毛皮獣などである。蝦夷の世界は、これらの交易品を媒介に、日本史だけではなく、世界史の上に姿をあらわすのである。


4、東北とアイヌ
北海道のアイヌ語による地名と同じタイプの地名が東北北部に多く存在する点については、
考古学上からいえば、北海道における縄文文化の時代からアイヌ文化の段階までの、文化の変遷には断絶がなく、アイヌ民族の主流は北海道縄文人の子孫と考えられる。
現代アイヌ語は、かって東日本・北日本の縄文人が話していた言語のなかの北海道縄文人の言語の系統をひくものなのであろう。
東北地方、とくに北東北でも、かなり遅くまで(平安時代までか)、やはり縄文人の系統の言語が話されており、その段階の地名が多く残存しているのである。
東北地方の言語はその後日本語へと変換したが、北海道では後代まで変換がなかったのであろう。

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上記で十分ですが、「こころのくすり」さんから



明治から第二次大戦が終わる頃までは、縄文人は日本民族によって日本列島から駆逐されていった先住民と見られていた。こうした見方は必然的に、古代から近世にかけて日本の支配する領域の北隣に居住していた異民族、そしてアイヌを縄文人の直接の末裔と見る説を生み出した。

このように縄文人、蝦夷、アイヌを等号で結ぶ見方は、その後の研究の発展によってほぼ否定され、今日の学界では受け入れられていない。

しかしながら近年では、12世紀におけるアイヌ文化の成立をアイヌ民族の成立と見る立場を政治的に不当なものとして糾弾し、古代の北東北からアイヌモシリにかけて広がっていた擦文文化や続縄文文化の担い手たちをも「アイヌ」と呼ぶべきであると主張する論者も、少数ながら存在する。例えば平山は山田秀三らが東北地方にアイヌ語地名が多数存在していることを明らかにした研究に言及しつつ、古代の蝦夷(エミシ)と近世のアイヌが同系統の言語を母語としていたことは事実であり、であるならば古代蝦夷と近世アイヌは同じ民族とするべきであると主張しているし、小野は12世紀にアイヌモシリでアイヌ文化を生み出した集団は、11世紀以前にアイヌモシリに居住していた擦文文化人やオホーツク文化人の直接の子孫であるから、これらは同じ民族と見るべきであると主張している。

ただ、こうした主張に対しては、エスニック・グループを本質主義的に捉えており、それを構成する人々の形質的特徴や社会的・文化的特徴が長期に渡って不変であるとの前提に立っていて、現在の人類学・考古学・歴史学・社会学の研究レベルでは通用し難いとの批判がある。

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