2009年8月25日火曜日

01413■ケフの狭布資料各種










1、「季刊 東北学」16号の柳原敏昭氏の「奥羽古代・中世交易史」より

749年の産金以来、砂金は陸奥国を代表する特産物であった。
令制が施行されたとき、それまで布であった陸奥国の調庸(律令制度下での租税制度)は、多賀城以北が金、以南が布とされた(寺崎1983)。
『延喜式』の交易雑物にも砂金三百五十両が見える。
そして、十世紀半ばまでには、百姓に調庸として課していた狭布を財源として、それを徭丁(ようてい)に支給して砂金を採掘させていたこと、鎮守府が国府から請け負って調達していたこと、年料化されていたことなどが明らかにされている(熊谷 1994)。




                         参考:吉川弘文館発行「古事類苑」
「倭訓栞 前編九計」けふ  狭布をけふといふは音を略す、けふのほそぬのといふは文選読の如し、

御拾遺集に、 けふのほそぬのむねあはじとやと見えたり、けふのせばぬのともいふとぞ、

津軽のあた りには、田を種る服に製す、たくりぬのといふともいへり、弘仁元年(810)の官符に、 応陸奥国浮浪人准土人輸狭布事と見えたり、

会津風土記に、細布出伊北郷と見ゆ、今布 の名にいほうあり、是なり   「袖中抄 十八」けふのほそぬの  みちのくのけふのほそぬのほとせばみむねあひがたき恋もするかな 

 顕昭云、けふのほそぬのとは、みちのおくにいてくるせばきぬのなり、せばければ狭 布とかきて、やがて声にけふとよみて、訓にほそぬのとよむ也、その声訓をあはせてけ ふのほそぬのと云也、さればむねあはぬよしをよむなり、やがてけふのせばぬのともよ めり  いたふみやけふのせばぬのはつはつに あひ見てもなほあかぬけさかな  うのはなのさけるかきねはをとめごが たがためさらすけふのぬのぞも 

「類聚三代格八」太政官符  陸奥国浮浪人准土人輸狭布事  右当道観察使正四位下兼陸奥出羽按察使
藤原朝臣緒嗣奏状称、陸奥守従五位上勲七等 佐伯宿禰清峯等申云、件浮浪人共欸云、土人調庸全輸狭布、
至浪人特進広布、織作之労 難易不同、斉民之貢彼此為異、望請一准土人同進狭布者、国司検察、所申有実
但黒川 以北奥郡浮浪人、元来不在差科之限者、臣商量、此国地広人稀、辺冦惟防、不務懐柔、 何備非常、
望令依件送者、右大臣宣称、奉勅依請   大同五年(810)二月廿三日   「延喜式 二十四主計」  
凡諸国輸調、(中略)狭布二丁成端、長三丈七尺、広一尺八寸、(中略)  陸奥国(註略) 調、広布廿
三端、自余輸狭布米穀、 庸、広布十端、自余輸狭布米  出羽国(中略) 調庸 輸狭布米穀、(中略)  越後国
(中略) 庸、白木韓櫃十合、自余輸狭布鮭   「吾妻鏡 九」文治五年(1189)九月十七日甲戌、寺塔已
下注文曰、衆徒注申之(中略  )  一毛越寺事(中略)  此本尊造立間、基衡(藤原)乞仕度於仏師運
慶、運慶注出上中下之三品、基衡令領状 中品、運功於仏師所謂(中略)希婦細布キフノホソヌノ二千端、(中略)
此外副山海珍物也  
 


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