2009年10月16日金曜日

01213■日時計という配置 昭和17年高木新助日記


ついに見つけました、大湯の諏訪富多氏の手になる「太古の神都 十和田高原」がスタジオ吉祥姫・田中正勝氏がまとめておられました。


(はりつけ)


著者 諏訪富多氏









日時計と云う方位石配置
大湯の高木新助氏の日記のうちに(昭和17年7月29日)


前日発掘の方位石群は全く従来の乱雑形状と反して其の存在立脚の正確な存在なるに驚

き、且つ其の意図の郡辺に存するやを研究判断する要、切なるが故に、更に其の近接地に

金棒を挿入して探査したるに確かに手答えあり之を掘さくせるに果たして建設当時の姿勢を

現存するでに不可思議と感ぜられる以外、その建設意図の昭和現代人の構想にも似て更に

古代人の知力の累積が、逞しき建設を果たしたる文化の偉大なる生活様式を明微ならしむ

べきものを信ず。


第2の発見は大丸石をつなげば東西南北を指し、中央立石は長さ3尺近くに花弁即ち十六

の御紋章に似て、立石より放射する丸石間には4方4個特に長大なるを布置せる何たる偉

観、数万年を埋没経過したる此の建設物は古代人が当時すでに其の理智構想に於いて一

大文化を有する民族たるを語るものとて唯々驚嘆の目をみはり、感激の声を発せざるを得ざ

りき。


ああ幾万年の星霜を閲みしたるべき此地下3尺に埋没せられ卿かも外圧震動の為め受く

べき破損、移動もなく建設等時其のままの状態を存せる点、尚その構想に表現に於て何等

か正確な意図を有するものと見るべきは方位の正確なる指示に立脚せる点、かかる深奥な

る上に構成せらるたるべしと感ぜられる点をのみ総合して考察するも、当時すでに文化を有

し天文学の高き思さくの練く成りを遂げたるものなるべしと推定せざるを得ず。


更にこの中通地域一帯は土堤区城内は言うに及ばず、其の連旦せる埋蔵を全面的に発

掘、その全貌を露星せしむる必要を痛感すると共にかくて結論を求むるの適切なるを信ず

る。


かつて本会が発掘発見当時に於いて、かかる重大性の埋没を予見予期したるものとは公

言せざるも、必ずや学界の重要資料の宝蔵たるを確信して昭和12年此の本会意図の下に

進んで保護管理の責に任じ、先住民中通遺跡と名称し、碑の裏面にその由来と期待を刻し

て篤学権威の到来に待たるもの、今回神代文化研究所理事多田井四郎治先生来場即時、

ヒモロギ、イワサカと断ぜられたる点は聊か我らの理解に遠しとするも、何れは先生の見解

発表は必ずや学界の注目に値し、問題の重要性を発揮せらるべし。故に今後の掘さく作業

は北方地区は尚汎なる大規模の地域なるを想像せらるるに依り、先ず南方研究の結論的結

果により更めて深査の歩を進むべきものとして現在の掘さくは中止して本方に専念すること

を希望したい。


(吉祥姫さんの解説) 

当時の発掘日誌からのレポートで発掘当時、当事者達がどれほどに興奮し、出土に何かを

期待した様子が手に取るように解ります。これを見ると当時は墓地跡とかという生活的な遺

物というよりも文化文明の痕跡として何か特別な聖地として大湯環状列石を見ていたことが

よく解ります。


それにしても「シュメールの象徴」でもあり「日本天皇家の紋章」でもある「十六御紋章」の話

題が当時から囁かれていたとは驚嘆に値するもので、また、それらの研究がアカデミックな

調査研究に当てられなかったことも悔やまれます。


文中「南側」「北側」とありますが、現在も南側が注目されており、思えば、考古学が発達し

た現在の考察と、発掘当時の期待と感覚による洞察は極めて類似性が高いことを思わせら

れます。


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(まとめ)
・やっと辿り着いた諏訪富多氏の「太古の神都 十和田高原」です。
・本書は発掘当時の生の感想が伝えられています。
・まずは、古代人の知力の累積により建設されたことへの感動。
・大丸石が東西南北をさすこと。
・いわゆる日時計は16弁の「菊花紋」に似ていること・・・これは新しい発見です。
・幾万年の星霜を経て地下三尺から出土。
・当時すでに文化を有し、天文学の高き思索により成し遂げられたこと。

・なんとこれは、現在の関係者の認識より、数段進んだ見解ではないですか。

・今までの発掘ににかかわってきた人々は何をしたのでしょうか。いやこれも、田村麻呂伝説以来の連綿として続く大和朝廷=日本政府のファブリケーションなのでしょうね。


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