2009年10月1日木曜日

01614■五の宮の父・継体天皇とは



大日堂は吉祥姫の父である継体天皇が出てきます。継体天皇とはどんなお方でしょうか。


(貼り付け)

1、継体天皇をめぐる謎は、まとめれば以下のように集約される。  
1).出自。すなわちこのHPの主題である、継体天皇はどこからきたのか? 
(2).20年の間どうして大和へ入らなかった、あるいは入れなかったのか?
(3).継体天皇はほんとに新王朝の創始者か?即ち、現皇室の祖先なのか。

2、(1).から見ていくことにしよう。
現在継体天皇の出自については大きく3つの意見がある。 
 
①.「古事記」を信用し、近江の国の豪族だったという説。
②.「書紀」の記述通り越前から招聘されて皇位に付いたとする説。
 それから、これは学会では賛同者は少ないが、
③.新羅から渡来した王族の末裔であるという説。  

3番目の説については出典がはっきりしない。何時の頃からこういう説が出現したのだろう。幾つかの「読み物」 風歴史本を読むとこの説が紹介されているが、何の本にそう書いてあるのか説明がない。おそらく後世になって、 皇族の出自も朝鮮半島であると強調したい歴史家によって唱えられた説だろうと思われる。

勿論、時代を遡って縄文末期、あるいは弥生前期までたどればその可能性は大いにあるが、それは日本人全てにあてはまる。 また、それまでの天皇家とは全く関係ない豪族が、地方豪族の力を結集し力ずくで王権を奪い、さもそれまでの 天皇家の系譜であるかのように「記紀」を捏造した、という説も現れたが、これまた出典がない。あいまいな 「記紀」の記述から想像はできるが、やはり記録されている内容を分析し大筋ではそれに沿うのが学問としては 王道だろうと思う。

 さてそうなると、近江か、越前かという事になる。だが、現在の史学会ではこの問いに対する結論は出ていない。 歴史学や考古学以外の学者もこの問題に取り組んだりしているが、前述した「蘇我氏」との関係を捉えて「越前」 としたり、「近江」の安曇川周辺の豪族だった息長(おきなが)氏との関係で「近江」を唱えたりと入り乱れて いる。私の意見としては、堺女子短期大学教授だった塚口義信氏が唱えていた考え方に近い。

3、(2).(3).の問いに対する答えも含めて以下に要約する。  
第26代継体天皇は、越前か近江の出身であった王族の血統につながる彦主人と、これまた越前か近江の出身であった振姫との間に生まれ、越前に居住していた。(後の蘇我氏との関係はこれに起因すると考える。)

また、近江の息長氏との姻戚関係も堅固であり、おそらく継体は越前に居住しながらも近江・河内地方と絶えず行き来していたと思われる。(樟葉宮での即位、筒城宮・弟国への遷都、馬飼部首荒籠との交流などは、北河内に強く継体天皇擁立を推す集団がいたと推測できる。)
息長氏は元々近江の北西部を基盤とする豪族というのが相場だが、実は北河内から綴喜郡にかけても居住していたと思われる。神功皇后は別名、息長帯比売(おきながたらしひめ)といい息長氏の血統であるが、その祖先の名には綴喜郡から来ていると思われるものが多い。またその子応神の妃も息長真若中比売(おきながのまわかなかひめ)といい息長氏一族であるし、継体から数えて5代後の舒明(じょめい)天皇にも息長足日広額天皇という別名がある。

さて、琵琶湖・淀川水系に力を持っていた豪族に支えられ継体は天皇となるが、当然奈良にいたそれまでの王族につながるもの達は面白くない。王族とは言え直系でもない「遠い王族」(応神の5世。あるいは5世の子)がいきなり天皇に即位するのである。「それなら俺だってなれる」と考えた者達がいたとしても不思議ではない。むしろ古代にあってはその方が自然である。
おそらく、王権を巡っての争いが20年間続いたのではないか。危機に瀕するたび、あるいは戦いにおける防衛上の理由で、継体は樟葉、筒城、弟国と遷都を繰り返したと考えられる。大和盆地の勢力はそれほどに強かったのであろう。しかしやがてその大和勢力も、越前・近江・淀川水系連合軍である継体軍門に降り、継体は即位から20年後に、大和の磐余の玉穂宮へ入るのである。

継体が仁賢天皇(24代。武烈天皇の父)の娘、手白香(たしらか)皇女(武烈の姉)を妃に迎えるのも、自らは王族の血統から遠いためあえて皇統の血を濃くしようとしたとも考えられるし、あるいは、大和勢は仁賢・武烈の血を引く者こそ正当な王位継承者であるという態度を崩さなかった為、手白香皇女の生んだ欽明天皇(第4皇子)がやっと即位できるような年齢になった頃、やっと大和入りを許されたとも解釈できる。

継体天皇は、我が国で始めて生前に譲位した天皇としても知られているが、第一皇子の安閑(あんかん)天皇に譲位した当日に崩御したとされているのはどうも作為臭い。安閑天皇の次は第2皇子の宣化(せんか)天皇が即位するが、この2人の天皇は即位していないという説もある。継体の次はいきなり第29代欽明天皇だというのだ。継体を擁立した大伴氏と、欽明天皇を推す蘇我氏の対立がからんで、継体以後の王位継承も混沌としていて霧の中である。

安閑、宣化天皇は在位期間が4年である。継体天皇も大和入りしてからは4年で崩御するが、大和入りの直後北九州で有名な「磐井の反乱」がおきる。この事件の詳細についてはまた別の機会に譲りたいが、この反乱も継体の大和入りに対する反抗と見れなくもない。いずれにしても、継体の即位・大和入りを巡っての期間は我が国の王権を巡る大混乱の時期だったのは確かである。


4、継体天皇の妃


書紀に9人、古事記に7人の后
   政略結婚で勢力拡大
継体は日本書紀では9人、古事記では7人の后(きさき)を迎えたと記されています。門脇禎二氏が「とりも直さず地域勢力との政略結婚を物語っている」というように、姻族関係を結ぶことでその背後にある勢力を利用したと考えられます。
日本書紀と古事記で后の記載の順番が違います。書紀は妻の格付けの順、古事記は結婚順という見方があります。その出身地については越前から近江、美濃、尾張と水陸交通の要衝の地域が多いのが特徴です。

中でも安閑、宣化の両天皇の母となる尾張氏の目子媛(めのこひめ)が重要視されています。名古屋市に六世紀初頭に東日本最大の前方後円墳といわれる断夫山古墳があります。これを築いたのが尾張氏で、越前を出た後、尾張を東国経営の拠点にしたと考えられれます。ここをヤマトと東国を結ぶ交通の拠点としたはずです。

また、日本書紀の三番目と七番目に出てくる三尾角折(みおのつのおり)君と三尾君については本拠が福井、滋賀両説があります。滋賀県には三尾君の始祖をまつった水尾(みお)神社や三尾里などミオと発音する地域があります。安曇川町から高島町にかけての地域が出身地で、金銅製の冠や装身具などの副葬品が出土した鴨稲荷山古墳に深く関連していると滋賀説は主張します。

一方、福井説は金津町に御簾尾(みすのお)のという地がありここはもとは三尾と呼ばれていたものが変化したもの。『延喜式』に出てくる三尾駅があったところだと主張します。ここに越前の前方後円墳の約四分の一が集中している横山古墳群があり、これは三尾氏の墳墓だとします、

さらに福井市の京福電鉄中角駅に近い福井市角折町や三尾野町と結びつける研究者もいます。
最終的に継体を継ぐ欽明天皇を産む手白髪命については「ヤマトの天皇の娘、ヤマトに入るときの最終的な姻族関係」と考えられています。
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