冬至、夏至などの日の出入りラインを見るために、クロマンタ地点の偏角や日の出入り角度のデータです。
1、偏角について
磁気偏角は時間とともに変化しています。
偏角の変化図は今道(1956)による
磁気偏角は場所によって異なります。
クロマンタの偏角 8° 10′
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「円暦」のシモタニ様より「偏角と真北」についてご指導いただきました(11.3)
①偏角とは磁気に特有の問題です。
②其れに対して太陽の示す真の東西南北は偏角はなく万年不変です。此れを「万古不易」とも言います。
③太陽の示す日影の示す真北に対して、磁気コンパスが必ず西に傾いた方角を示す習性がある事を問題として、西偏、または偏角と言う訳です。
④ストーンサークルの場合も、太陽の示す真北、つまり、子(正しい北)を示している石を配置している筈ですから、
其れを太陽ではなくて、もし偏角を知らずに磁気コンパスで見ては磁北を見る事になり、
折角目の前に第一級の現物がありながら、誤差を見て誤解する事になれば残念ですから、
この点特に一般の方にはご注意願いたいと思います。(現場調査で注意せよ!)
⑤星座の位置も変わります。北極星の位置も無論変わります。太陽の位置は不変ですが、今の天文学が基準としている星座の位置も2.5万年で1周りしてしまうのです。
⑥「フトマニ図」の子、つまりヱは、その2.5万年前の北天の龍座をリアルに示したヲシデかと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2、日の出入り方位
それは一冊の本との出会いから始まった。
「神々のメッセージ-古代祭祀線への挑戦-」(堀田総八郎著・中央アート出版社)がその本である。以下にそのきっかけとなった文章を紹介する。
太陽崇拝族と銅鐸で知る冬至祭祀
この世界には昔も今も太陽を崇拝する民族が各地に存在し、日本でもかって太陽崇拝を行っていた痕跡がさまざまな形で残っています。
弥生時代に入っての稲の栽培では夏至が重要な農業暦の一日となり、古代のシャーマン(巫術師)たちは、この日を人々に告げ、田植えの督促をした。また、冬至の日は一年中で太陽が一番弱くなると見られていて、この日を境にして太陽が再生し、復活すると考えられていました。そこで、これを人間の生命のよみがえりに重ね合せて、生命の復活を願う祭を行ったといわれています。
この夏至や冬至の太陽の日の出線を示す有名な史跡にイギリスのソールズベリにあるストーンヘンジがあります。紀元前1900年頃に形成されたとされるこのストーン・サークルの北東方向には夏至の太陽の日の出線方位が開き太陽観測の要石があり太陽祭祀が行われたのではと推測されています。
南米のインカ文明でも、夏至に太陽神をあがめる大祝典があり、貴族や高官がその首都クスコに集まりました。
日本各地の2至2分(夏至・冬至・春分・秋分)の日の出入り方位を国立天文台編の「理科年表」で見ると下表となり、緯度が高くなるにつれて南北への方位角が大きくなることがわかります。
(クロマンタの位置は北緯40°17′ 東経140°49′)
古代日本にだけ出土する遺物として有名な銅鐸について、型持ち穴が二至の太陽の日の出線の向きを示しているのではと指摘した方もあったようです。もし、この型持ち穴が二至の太陽の日の出線ならば、緯度によって日の出の方位角が変るため、大和地方(北緯34度30分前後)と九州北部(北緯33度30分前後)とでは、その方位角に一度近くの差があり、同じ銅鐸で大和と九州北部の日の出線を測るとすれば、あくまでも簡易観測器の域しか出ず、地域ごとに型持ち穴の位置を変えた鋳型を作り替えねばなりません。
(「神々のメッセージ-古代祭祀線への挑戦-P25-26.堀田総八郎著・中央アート出版社)とある。
ここで注目してもらいたいのは「弥生時代に入っての稲の栽培では夏至が重要な農業暦の一日となり、古代のシャーマン(巫術師)たちは、この日を人々に告げ、田植えの督促をした。また、冬至の日は一年中で太陽が一番弱くなると見られていて、この日を境にして太陽が再生し、復活すると考えられていました」の部分と「古代日本にだけ出土する遺物として有名な銅鐸について、型持ち穴が二至の太陽の日の出線の向きを示しているのではと指摘した方もあったようです」の部分である。確かに銅鐸の型持ち穴を以下のように覗いた場合、視点の交差する角度はほぼ60°となる。これは出雲の位置である北緯35~36°での「夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ直線」と「冬至の日の出と夏至の日の入りを結ぶ直線」の交差する角度と等しい。
このことから、銅鐸は「太陽を基準にして方位を測る道具」として用いられていたのではなかろうかと私は考える。ではさらにこの銅鐸を用いて、実際どのように方位を測ることが出来るのかについて考察していきたい。
「神々のメッセージ-古代祭祀線への挑戦-」(堀田総八郎著・中央アート出版社)がその本である。以下にそのきっかけとなった文章を紹介する。
太陽崇拝族と銅鐸で知る冬至祭祀
この世界には昔も今も太陽を崇拝する民族が各地に存在し、日本でもかって太陽崇拝を行っていた痕跡がさまざまな形で残っています。
弥生時代に入っての稲の栽培では夏至が重要な農業暦の一日となり、古代のシャーマン(巫術師)たちは、この日を人々に告げ、田植えの督促をした。また、冬至の日は一年中で太陽が一番弱くなると見られていて、この日を境にして太陽が再生し、復活すると考えられていました。そこで、これを人間の生命のよみがえりに重ね合せて、生命の復活を願う祭を行ったといわれています。
この夏至や冬至の太陽の日の出線を示す有名な史跡にイギリスのソールズベリにあるストーンヘンジがあります。紀元前1900年頃に形成されたとされるこのストーン・サークルの北東方向には夏至の太陽の日の出線方位が開き太陽観測の要石があり太陽祭祀が行われたのではと推測されています。
南米のインカ文明でも、夏至に太陽神をあがめる大祝典があり、貴族や高官がその首都クスコに集まりました。
日本各地の2至2分(夏至・冬至・春分・秋分)の日の出入り方位を国立天文台編の「理科年表」で見ると下表となり、緯度が高くなるにつれて南北への方位角が大きくなることがわかります。
日の出入り方位
|
古代日本にだけ出土する遺物として有名な銅鐸について、型持ち穴が二至の太陽の日の出線の向きを示しているのではと指摘した方もあったようです。もし、この型持ち穴が二至の太陽の日の出線ならば、緯度によって日の出の方位角が変るため、大和地方(北緯34度30分前後)と九州北部(北緯33度30分前後)とでは、その方位角に一度近くの差があり、同じ銅鐸で大和と九州北部の日の出線を測るとすれば、あくまでも簡易観測器の域しか出ず、地域ごとに型持ち穴の位置を変えた鋳型を作り替えねばなりません。
(「神々のメッセージ-古代祭祀線への挑戦-P25-26.堀田総八郎著・中央アート出版社)とある。
ここで注目してもらいたいのは「弥生時代に入っての稲の栽培では夏至が重要な農業暦の一日となり、古代のシャーマン(巫術師)たちは、この日を人々に告げ、田植えの督促をした。また、冬至の日は一年中で太陽が一番弱くなると見られていて、この日を境にして太陽が再生し、復活すると考えられていました」の部分と「古代日本にだけ出土する遺物として有名な銅鐸について、型持ち穴が二至の太陽の日の出線の向きを示しているのではと指摘した方もあったようです」の部分である。確かに銅鐸の型持ち穴を以下のように覗いた場合、視点の交差する角度はほぼ60°となる。これは出雲の位置である北緯35~36°での「夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ直線」と「冬至の日の出と夏至の日の入りを結ぶ直線」の交差する角度と等しい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
冬至:日の出入り
鹿角市(秋田県)緯度:40.216 経度:140.788 標高: 0.0 標準時:9
日付 | 出 | 方位 | 南中時 | 高度 | 入り | 方位 |
---|---|---|---|---|---|---|
年月日 | 時:分 | 度 | 時:分 | 度 | 時:分 | 度 |
2009/12/22 | 6:56 | 120.6 | 11:35 | 26.4 | 16:15 | 239.4 |
夏至:日の出入り
鹿角市(秋田県)
緯度:40.216 経度:140.788 標高: 0.0 標準時:9日付 | 出 | 方位 | 南中時 | 高度 | 入り | 方位 |
---|---|---|---|---|---|---|
年月日 | 時:分 | 度 | 時:分 | 度 | 時:分 | 度 |
2009/06/21 | 4:07 | 57.8 | 11:39 | 73.2 | 19:10 | 302.2 |
0 件のコメント:
コメントを投稿