東北の太平洋側では、南は福島県南部の白河から北は宮城県南部の日理(亘理)、伊具にかけて評が置かれ、多賀城成立の礎となる「道奥国」(のち陸奥国)が設けられた。それ以北は政府の支配下から外れた蝦夷の地だったが、7世紀半ばになると支配領域の拡大が図られ、7世紀後半には宮城県北部の玉造や新田にまで及んだ。
天武天皇の時代に移ると、皇族中心の政治権力を背景にして律令制国家の建設が強力に進められ、大化の改新から半世紀ほど経過した701年に大宝律令が制定された。地方行政については、全国を畿内と七道(東山道、北陸道、東海道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)に分け、さらに国、郡、里に分けて役人を配置し、地方組織の強化を図った。
律令においては、北陸道の越後国、東山道の陸奥国、出羽国など東北地方の国に対して多くの特例が設けられ、その中には、「蝦夷の様子をうかがう」、「蝦夷を服従させる」、「蝦夷を討つ」といった国守の職務規定まであり、蝦夷対策が律令政府の大きな課題であったことが窺い知られる。
下記年表に、東北地方における郡の分割や新設、国の再編が度々行われたことが書かれるが、これはそうした蝦夷対策の一貫として行われたもので、律令制支配を徹底させることが狙いだった。霊亀元年(715年)になると、陸奥国の更なる充実経営のため、坂東6ヶ国から1000戸の住民移動が行われた。
こうした経緯の中、陸奥国支配の本拠地として多賀城が創建されるに至り、政府は、此処に、陸奥国府と蝦夷の反乱を鎮める鎮守府を設置し、陸奥出羽按察使・陸奥守および鎮守府将軍を兼任する国守を駐在させた。
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(まとめ)
・大和朝廷が蝦夷支配のため設置した時から
・古代の多賀城はどうなのでしょうか??
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