2009年7月7日火曜日

01806■日高見の多賀の壺若宮

宮城県多賀はタカミムスビであるトヨウケ神が、天上「高天の腹」の精奇城(さごくしろ)の宮に鎮座する、四十九の言霊の神々を、地上の御座に遷座し、地上の「高天の腹」としての<宇宙祭祀>を執行された所でした。現在多賀城市高崎に多賀神社が存在し、この御座と深く関係するものと考えられます。(「宇宙原理ホツマ」)

1、日高見多賀の壺若宮

原文に
日高見(ひたかみ)の 御座(みくら)の跡に
また都  遷して名づく
多賀の守(こふ) 壺若宮(つぼわかみや)の(11-1)

とあります。

アマテル神の御子ヲシホミミノ尊は、近江の多賀から、日高見の多賀城市にある祖父トヨウケ神の御座の跡に都を遷し、宮の名は多賀の守(こふ)「壺若宮」と名づけたことがわかります。すなわち多賀城市の多賀とは、近江の多賀(多賀大社)からとった名前だったのです。
















2、みちのく・多賀は日本の壺
 ところで、磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の五カ国の古称を「陸奥(みちのく)」といいます。しかし、なぜ
「ミチノク」とうのかは知れていません。『ホツマツ
タエ』によれば、アマテル神(天照大神)が若きころ、日高見の多賀に坐すトヨケ神のもとで天の道を学ばれ、そこで<道の奥(奥儀)>を捧げられたことによる名称であることがわかるのです。「ミチノオク」がちぢまり「ミチノク」となったのです。

 松尾芭蕉もこの日本の壺としての道の奥多賀にある「壺の碑(つぼのいしぶみ)」
を訪ね、古をしのんで涙がこぼれそうだったと「奥の細道」に記しています。芭蕉もこの地で、俳諧の<道の奥>をさとったのではないでしょうか。芭蕉は壺の碑との出会いが契機となって、羽黒山で「不易流行」の考えにいたっているのです。




多賀は、日本の「壺」であり、宇宙祭祀拠点である地上「高天の原」である

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まとめ)
・ホツマでは、多賀城が日本の重要な拠点・・・「壺」である。

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