2008年12月7日日曜日

01602■大日霊貴神社(大日堂)来歴



【問題意識】
・大日霊貴神社(オオヒルメムチ)ですが、大日霊貴は(ウヒルキ)とも読み、天照大神の幼少の名前なのです。しかも日本でここだけ、唯一なのです。不思議でしょう!!
・創建の時代はいつなのか
・継体天皇がなぜ、この鹿角の鄙にでてくるのか?

【資料】














地元鹿角市の資料によります。
社伝によれば、継体天皇の御代にだんぶり長者が大日神を祀ったことに始る。長者の没後、継体天皇の
勅願により大日示現社を建立した。その後、元正天天の養老二年(七一八)に名僧行基が下向して、大
日堂として九間四面の堂社を建立した。その時に郷人に伝えられたのが、大日堂舞楽(ざいどう)であ
る。現在、正月二日に谷内・長嶺(川部を含む)・大里・小豆沢の人々によって伝承されている。
平安時代末期、平泉の藤原秀衡によって大修理がなされたと伝えられる。

室町中期の文明十八年(一四八六)に大里上総により修理が行われる。
江戸時代の寛文六年(一六六六)に火災にあい南部重信の命により再建された。江戸時代は南部藩主か
ら八十五石の社領と一里四方の山林を安堵されていた。
神仏習合により、養老山喜徳寺と称していた。明治になり、神仏分離によって大日霊貴神社と称す
るようになった。  
昭和二十四年に火災にあい、翌年から三十一年にかけて現在の社殿が建立された。
  
{むらのいぶき} 
             
祭神 天照皇大神、吉祥姫命、豊受姫命、猿田彦命ほか九柱。
創立 善記二年(523)伝説にて創建。第二十六代継体天皇が徳高くして、醴泉授かり長者となっただんぶり長者の善行を讃え、永世に伝えようと善記二年建立なる。
   
第四十五代元正天皇は養老二年(718)、時の名僧行基に多くの工匠、楽人を添えてこの地に派遣し、大日堂を再建した。この時、観地四ケ村(小豆沢・谷内・長嶺・大里)を集め、舞楽を教え奉納したのが、今に伝わる祭堂ザイドウである。
 
その後、平安時代末期鎮守府将軍藤原秀衡の命により、大修理が加えられたと伝えられる。 
寛文五年(1665)12月30日の夜、大日堂の天井から出火し全焼、南部大守重信公が元の如く九間四面に社殿再建
された。 
     
奥州鹿角郡の大日堂として崇敬を受けて来、明治六年村社に、昭和二十年十月郷社に列せられる。 
 
境内には御神木「おば杉」があり、市内随一の鎮守である。
貼り付け終わり。
大日堂とは大日如来を祀るお堂で、大日信仰とは、大日如来に対する信仰である。
大日如来とは別途「空海と曼荼羅」で調べた結果、天照大神です。

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