2008年12月15日月曜日

01011■鹿角蝦夷と田道将軍



【問題意識】
・最も強かった蝦夷は津軽蝦夷であった。鹿角も津軽蝦夷だったのか。
・田道将軍はなぜ破れたのか


【資料】

/www7.plala.or.jp/t-aterui/akita/a-nisikigituka2.html

1、陸奥風土記逸文に「岩城の国造岩城彦が福島県石城郡棚倉町八槻の蝦夷に敗れたので、日本武尊が征討軍としてやってきた。そこで蝦夷は津軽の蝦夷に援護を要請したので、日本武尊は非常に苦戦した」とある。

2、日本書記に、斉明5年(659年)日本から唐に蝦夷二人を献上した。そのときの質疑に「・・・一番遠くにあって一番強いのが津軽の蝦夷=都加留(ツガル)で上津野(カヅノ)も都加留に属していたろう。矢立峠・坂梨峠を越えればすぐ、出羽でも陸奥でも未だ国名もない漠とした津軽なのだ。その強さは大和朝廷の圧政に耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだ末のやむにやまれぬ末の抵抗だったのです。

3、元慶の乱において、鎮守将軍小野春風は七時雨道(鹿角街道)という、わざわざ岩手県を迂回して、最初に『言向けて和(やわ)し』たのも鹿角蝦夷なのだ。鹿角を説得できれば他の11の反乱村も説得可能だったのだ。

4、上津野蝦夷の強さの伝承は日本書紀にある上毛野田道(カミケヌノタミチ)将軍の記述である。
『仁徳紀55年蝦夷叛けり、田道を遣わして撃たしむ、即ち蝦夷のために敗られて伊峙水門に死(みう)せぬ。時に従者有りて田道の手纏(たまき)を取り得てその妻にあたう。即ち手纏を抱きてわななき死ぬ。時に人聞きてかなしむ・・・』とある。
毛野氏は東国坂東の豪族で、上毛野氏はその宗族である。朝廷の命を受けて、主に蝦夷征伐と東北経営を任された。その将軍が今からおよそ1、600年前、ここ上津野村まで東征して来たが、伊峙水門(いじのみなと・米代川流域男神・女神の下流に石野村がある)で討ち死にしたのだ。実際鹿角の申(さる)が野という所に、田道将軍を祀る猿賀神社があり、その前に『田道将軍戦没の地』の石碑まで立っているいるからです。

5、日本海沿岸の蝦夷征討・阿部比羅夫から遡ること300年も前の話です。でも伊峙水門については、宮城県石巻説や、茨城県夷針郡説などがあり定説はない。

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【まとめ】
・津軽蝦夷(鹿角も津軽蝦夷とみなし)は強かった、田道将軍はわなないて亡くなった。

・強さの秘密は大和朝廷のい圧政に耐えが滝を耐えたため。

・田道将軍は東国坂東の豪族の親戚。蝦夷征伐と東北経営を任された。

・田道将軍の討ち死にした場所は、鹿角、石巻、茨城県説がある。

・阿倍の比羅夫から300年も前。

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