2008年12月10日水曜日

01605■行基図と鹿角大里

秋田県鹿角市の大歴史学者・安村二郎さんが「大里」について述べています。



















































大里という地名には、特別な意味がこめられているとかねがね思ってきました。里は人の住む所であるから、大里は大きい村で、ありふれた地名のようにみえます。しかし北東北秋田・岩手・青森三県のなかで、村名の大里は鹿角大里のほかは見当たりません。
十四世紀頃の百科全書「拾介抄」に載る行基図(ぎょうきず)と呼ばれる日本国図では、陸奥・出羽二国の北が津軽大里となっています。その境界線添ぞいに壺石踏(つぼのいしぶみ)と書き込みのある、なんとも不思議な感じの古地図です。私は、もともと大里は御里(おんさと)かもしれないと考えています。
文治五年(1189)九月、奥州を平定した源頼朝は、平泉において論功行賞を行い、奥羽の各郡いっせいに郡地頭職を任命したといわれます。

行基図































日本ではじめて地図が作られたのは、いつ頃だったのでしょう? 
646年、あの有名な「大化改新の詔」の中で、各地の地図を朝廷に提出するよう記されています。
これが記録上もっとも古い地図の起源でありました。


その後、奈良・平安時代にも、国家の一大プロジェクトとしての日本地図作成を記録上にみるとこができますが、いずれも伝存する図がないためその内容を確認することができません。


 そもそも実用の面から考えれば地図はその内容が常に最新である必要があって、古くなった図は廃棄される運命をたどります。貴重であるゆえに、紙を漉き直して再利用する時代のこと、なおさら古い地図は残らなかったのでしょう。


 「行基図」は、奈良時代の僧、行基(668~749)が作ったという伝承つきの地図。現在確認することのできるものではもっとも古い日本図です。お世辞にも正確な地図といえないその図のスタイルは、山城国を中心に七道を貫く線を引き、そこへ丸みをおびた形の国を並べるものでした。飛躍的発展をとげる江戸時代に至るまで、ながく日本図のスンダードとして利用され、写図や版本が江戸初期まで作られています。

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(まとめ)
・大里と「津軽大里」の関係はあるのだろうか。
・津軽とトヨプケ神・・・初代オオクニヌシノカミが岩城山麓に流され、のちに名誉回復しトヨウケ神に。
・書き込みのある(この図では見えませんが)「壺の石踏」・・・書き込みと石踏が不思議。

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