2008年12月11日木曜日

01010■石川啄木と鹿角




【問題意識】
石川啄木の「鹿角の国を憶うの歌」は、よほど鹿角の地に縁があるか、または長く住まないと詠めないほどのレベルです。
鹿角物語で調べました、やはり啄木は鹿角との縁が薄くなかったのです。

【資料】

「鹿角物語」収集データリストより





 △鹿角との関わり

①石川啄木の母カツは工藤条作の娘である。条作の母は、毛馬内常照寺の娘である。 つまり啄木は、母方の祖先の血(すなわち[鹿角のこと」)を、意識の底に持ち 続けていた。

………

②明治三十四年、啄木が数え年十六歳のとき、鹿角を訪れたと云う。
すなわち、金田一京助著『石川啄木年譜』によると、同年七月、金田一京助氏に 彼は、鹿角の伝説に就き、「錦木」「狭布の細布」の由来、錦木塚の所在などを 詳しく問うたとされる。

同年八月鹿角へ遊び、小豆沢の大日堂へ詣で、錦木塚を弔い、今に細布の遺製を 伝える農家古川氏(黒沢家のことか)を訪れたと云う。

………

③更に啄木と鹿角とのあまりにも不思議な縁を感じさせる事柄として、啄木の姉サダの 存在である。
サダ(田村姓)は、啄木と節子が婚約するのにあたって、母を説得し尽力したのは、 明治三十七年一月のことであった。
翌二月、夫に従って小坂鉱山に赴いた。
そして翌年、肺結核のため三十一歳で短い生涯を遂げた。

これは、啄木が初めて出会った肉親の死であった。
「錦木塚」の伝説のある所と、小坂鉱山とは、同じ鹿角郡であり、啄木の心は、 鹿角に向くのであった。



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