2008年12月10日水曜日

01606■ 鹿角・大里館



【資料】
鹿角・大里館 案内板の内容を引用させていただきました。

















大里城は、八百十数年前の文治五年(西暦一一八九年)鹿角初めての郡地頭となった武蔵国の鎌倉御家人、成田四郎助綱が郡統治の本拠として築いたとつたえられています。
成田氏は、鹿角四氏といわれる安保、秋元、奈良、成田の統領として、南北朝期には、鹿角郡国代となり南部氏に比肩する勢力であった。
特に、成田小次郎左衛門尉頼時は延元元年(一三三六)及び同二年に比内の浅利氏、津軽の曽我氏の連合軍が大里城に攻め寄せたが、これを撃退しています。
しかし、それから約二百五十年後の天正十九年(一五九一)六月に起った九戸騒乱に城主大里修理親基が九戸方の部将として入城、全国六万五千の兵に囲まれながら僅か五千の城兵で三ヶ月も戦ったが、九戸城は落城、首謀者八人の一人として、栗原郡(今の宮城県)三迫厚地村に送られ九月二十一日、九戸政実と共に処刑された。
城の規模は広大で、本丸を含む七郭と、下モ舘の三郭があるが俗に云う「舘崩し」で浅野長政の従臣、内山助右衛門によって破却された。

【問題意識】
大里城(1,100年)頃でなく、さらに1,000年位前の「大里」が行基図に載るものと思います。



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