2009年6月8日月曜日

03014■歌枕による東北のイメージ転換の歴史









荒俣宏の{「歌枕」なぞときの旅}が大変に面白い。
あの荒俣宏の東北の歌枕は四国お遍路と同じであることがよく理解できるのです。四国は空海によって封印されたのですが。わが東北は「歌枕」によって蝦夷の事跡を抹殺する詩的な罠であった。















古代東北(蝦夷)と大和朝廷の歴史変換
日本の彼方の歴史(P175~)

第一期(六世紀前後までの、いわば「併存時代」

この時代まで、和人は江見氏の世界と距離を置き、蝦夷でも伝統的な生活習俗を守っていたことだろう。その生活は狩猟が中心であり、今も「マタギ」がアイヌ語にきわめて類似した特別の「山ことば」を使用

していたことからも推測できる。
だが半面、農耕や樹木栽培の技術もまた存在
し、日本海を隔てて大陸とも交
易を行っていた。したがって海岸沿いに巨大な港や集落も存在したに違いない。






第二期(多賀城が設けられ和人による本格的な
    東北支配が開始される八世紀まで)


この期間に、蝦夷と和人との決定的な関係が生じた。両者の区分けとして、鹿島神宮のある常陸、そして下野、上野が「国境」であり、まさに白河関が蝦夷国への入口であった。
しかし、東海道が北へのびて仙台近郊の多賀城に達し、ここに陸奥支配の拠点ができあがると、事情は一変した。陸奥開発のためために和人の大量入植が開始されたからだ。

「阿倍比羅夫」
日本海側の蝦夷は七世紀半ばに「越国」の国司である阿倍比羅夫の遠征隊と接触している。阿倍比羅夫は六五八年から三年を費やし、二百艘からなる大船団を率いて出羽から津軽までの北方をうかがった。とはいえ阿倍比羅夫は軍事的制圧をめざしたのではない。各地で蝦夷に大和朝廷の官職を与え、政治的に北方の支配権を手に入れようとした。
たぶん目的は交易と、大陸からくる人々の受け入れるルートづくりにあった、と思われる。


第三期(坂上田村麻呂時代)

坂上田村麻呂時代の時代になると、両者の関係は大きくこじれる。第二期において制圧された蝦夷の人々が反抗し始めるのだ。
桓武天皇が平安京を開いた八世紀末は、事態が最悪の展開となり、田村麻呂が軍団とともに陸奥の遠征することになる。
なぜ、そうした関係悪化が発生したか。書くまでもなく、数万人単位で押し寄せてきた和人との土地争いである。多くの蝦夷が土地を奪われ、さらに北
方へ追いやられた。和人たちは稲作を推し進め、文化的にも蝦夷のそれを圧倒しだした。

①最初の反乱は、伊治砦麻呂 宝亀11年(780)
②北上川の戦い、官軍の損害約三千人 アテルイが指揮をとった。
第二の遠征軍が派遣された。副将軍が坂上田村麻呂

アテルイと田村麻呂の10年にわたる攻防が繰り返された
802年ついにアテルイを投降させた。
















第四期(百年を経過し、陸奥に再び平穏が戻った
    「古今集」が編集された時代)

「古今集」が編集される時代は、すなわち歌枕の時代である。
ここにおいて陸奥(東北)はリアルな辺境ではなくなり、エキゾチックな「架空の北方」として都人のイメージに定着していく。

要するに、陸奥(東北)の歌枕は、田村麻呂とアテルイの死闘から100年以上経って、実際の血で血を洗う戦争の生々しさから脱し、ようやく文学イメージに熟成されたといえる。

それは、歌枕成立と引き換えに消された「陸奥(東北)の本来のイメージ」である。いや、イメージと言えば虚像を連想させるから、「陸奥(東北)での古い実像」としたほうがいい。
歌枕が消し去った陸奥(東北)の古い実像とは、当時、高度に発達していた蝦夷独自の文化と、戦闘の傷あとである。
とくに、後者の戦争の記憶は、巧妙に抹殺されたに相違ない。官軍側を破ったアテルイのような英雄は、「悪路王」あるいは「鬼」として悪役に回され、他方、勝利をもたらした田村麻呂が英雄にまつりあげられるのだ。

こうして、田村麻呂伝承は、歌枕とセットになって、陸奥(東北)にまつわる蝦夷の真相を消すための美しいフィクションとして考え出された。


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(まとめ)
・このストーリーは完全に納得できます。
・歌枕が東北のイメージ転換の道具であった。
・田村麻呂伝承が歌枕とセットになって、東北蝦夷の真相を消すためのものであった。

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