2009年6月19日金曜日

01802■壺の碑物語の変遷・荒俣論

西行」ら芭蕉にかけての、中世、そして近世にわたって、最も注目を集めた陸奥の古代遺跡は「壺の碑」であった。ツボと呼ばれる土地に建てられた石碑の意味である。


■「日本中央」幻の碑を東北に探して

1、「イシブミ」とは「ツブテ」時代
 「イシフミ」とは、藤原相之助によれば、元来「ツブテ」のことであったという。ツブテとは、何かに投げつけるための小石で、手紙のない時代には相手に石を投げて通信したという、これが石文である。
石文は、神が宿る依代とされた意志を使うため、神への通信、あるいはあの世への通信としても使われた。賽の河原の石積みや神社に玉石を置くのも、こうした週間の名残であろう。


2、石文は恋文の意味
 やがて和歌がうたわれる時代になると、石文は「文字で伝えられない想いを相手に伝える」手段となり、主として男女のあいだに取りかわされる恋文の意味になった。現代人もときどき、恋人のいる部屋の窓に向けて、外から小石を投げたりする。そういえば文知摺石や虎石だのは、まさに石文の実例だろう。


3、「新古今集」時代「イシフミ」は「石碑」
 ところが、平安を過ぎて「新古今集」の時代になると、「イシフミ」は碑すなわち石碑を意味する語に変わっていく。このとき歌枕になったのが壺の碑であった。

壺の碑は平安末期に顕昭の「袖中抄」から知られるようになった。
 陸奥の奥に「つもの石ぶみ」という石碑がある。ここに「日本の果て」と銘記されている。坂上田村麻呂が征夷の戦を終え、矢の筈を使って大きな石の表に「日本中央」と書きつけた。そこは地名を「つも(あるいはつぼ)」といった。なぜ日本の中央としたのかといえば、蝦夷の先には千島というたくさんの島々がつらなり、それらを総合するこのあたりが日本中央にあたるからである、と。


4、信じられたが、実物は発見されなかった
 西行をはじめ中世の歌人は「日本の境にあって、なお日本の中央と称する奇妙な古代遺跡」の実在を信じた。けれど、この実物は一向に発見されなかった。江戸期の東北発掘ブームで南部野辺近くの坪村、石文村、碑川というところで、千引の岩という重い石が存在するという風説が流れた。


5、多賀城に壺の碑発見
 水戸光圀が「大日本史」編纂作業にあたって、古代史の事実確認のため世に伝わる壺の碑を発掘する決心を固めた。
多賀城跡から偶然に発掘された石碑があたt。ただ当初は農民が畑で掘り起こした奇妙な石碑、という程度のニュースだった。そのうちに、発見場所こそツボでなく多賀城なのだが、もしかするとそれが本物の壺の碑かもしれない、と推理する文献があらわれ、水戸光圀の耳に入ったのである。
光圀は使者を遣わし、石碑を調べさせ、これこそ壺の碑と認定した。これが現在見学できる多賀城の「壺の碑」である。


6、「日本中央」碑発掘
 明治8年(1875)に明治天皇が東北巡幸することにあわせ野辺地近くを発掘したが発掘できなかった。
 ところが昭和24年(1949)、地元の人が雑木林に埋もれていた高さ1.5mの石碑を掘りだした。しかも、この石碑には、たしかに「日本中央」と浅く文字が刻まれていた! イメージの中で生じた架空のはずの歌枕は、ついに現物の石碑をわたしたちに掘りあてさせてしまったのです。

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(まとめ)
・「新古今集」の時代から、田村麻呂がでてくるが、これも「田村麻呂伝説」の一環と考える。
・「壺」とは何か、「いしぶみ」とは何かの原点に帰る必要があると考えます。
・「壺」「いしぶみ」が古代東北の文化であったとなれば、田村麻呂=日本中央論は消えることになります。
 ここが私の主張するところです。

・それにしても、この変遷の過程は納得できるものではありません。荒俣さんの論は他はすべて納得できますがここだけは無理です。

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