2009年6月19日金曜日

01803■芭蕉が感動した多賀城碑

芭蕉は壺あるいはツモという土地から発見されたものもなく、「日本中央」とも書かれていないのに、多賀城碑をみてなぜ感動したのか。

荒俣宏「歌枕 謎ときの旅」(P153)
水戸光圀が、多賀城跡から発見された石碑を根拠として、フイクションの地名を実在のそれに変更したのである。
しかし多賀城跡から出た石碑は、
①西行がうたったように「外の浜風」が吹きつけるところではなかった。まったくの内陸にあった。
②壺あるいはツモという土地から出たものでもなかった。
③石面に「日本中央」と書かれていいなかった。
しかし、石碑という物証が威力を発揮した。だれもが古い石碑の存在にひれふしたのである。


芭蕉が奥州に旅した時、この多賀城碑は発見されたばかりだった。西行や能因のときには地中に埋もれていた物証に、光が当たったばかりであった。だから芭蕉は大喜びだった。
水戸光圀が認定した石碑を追いかけて東北奥地の行脚に出た芭蕉は、五月八日に仙台から塩釜に向かう道で、壺の碑を見物している。その感動のしかたも尋常ではない。

「ここに至りて疑ひなき千歳の記念、いま眼前に古人の心をけみす。行脚の一徳、存命の悦び、き旅の労を忘れて 泪も落つるばかりなり」

と。ただ、古い石碑に出会えたというだけで、これだけ感動したのである。こころが千年前までトリップしたのだから、まさに縄文までさかのぼれるタイムマシンなみである。
芭蕉がなぜここまで感動できたのかといえば、歌枕も時間が経つとその場所さえ定かでなくなる場合が多いのに、まちがようのない「千歳の記念」がちゃんとそこに存在していたためである。古の人の心がここに刻まれていた、とまで述べている。

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(まとめ)
・荒俣氏はこのあと、「日本中央」と書かれていない多賀城碑なのにといろいろ書かれています。
・しかし私は、純粋に芭蕉が感動したのは、この碑に出会って縄文までさかのぼれたことで感動した方を採用したい。

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