2009年6月6日土曜日

01406■南部裂き織りの歴史





錦木のけふのせば布には、南部裂き織りが関係あるとの直感


南部裂き織の歴史から、












引用開始

寒冷な気候のため、綿を生産できなかった雪国では、古くから着るものといえば、麻布、藤布、科布を自分たちで織ったものでした。江戸時代、暖かい綿はとても貴重だったのです。手に入るのは大阪から、日本海を北前船で運ばれた木綿や古手木綿でした。それらの布は大切に使われ、ほんの端布も粗末にすることなく、重ねて刺し子にしたり、最後には裂い
て、経糸に麻を張り、緯(横糸)にこの裂いた布を織り込んで、夜着、仕事着、帯、前掛けなどにしたのです。


太平洋側の南部地方は、日本海側中心の北前船からの古手木綿はそれほど多く入りませんでしたが、明治26年鉄道の開通以降本格的に入ってくるようになり、経糸にも木綿糸を使い、炬燵がけや帯を織りました。経糸の木綿糸は、もめん屋で、麻布(ののと言われました)と物々交換して手に入れたといいます。木綿糸はカナと呼ばれ、糸といえば麻糸のことでした。帯は農閉期の女性の現金の収入源となっていました。

化学染料で染めた布も使われるようになり、カラフルな裂織が織られるなど、明治後半から、南部では裂織が盛んで、今でも工房を訪れた70代、80代の方々が『家にも機があった』『おばあさんが織っていた。』と昔語りをしてくれます。
昭和23年の大麻取締法の制定により、麻を育て、麻織物を織ることができなくなったために、機織が衰退していき、南部地方の炬燵がけが、日本の地機で織られた裂織の最後の実用品になったといいます。

南部地方には、終戦後になっても、家庭に身近に炬燵がけや帯や地機が残っており、一本の形見の帯に魅せられて、故菅野暎子先生が南部裂織保存会を起こしたように、現在の趣味と実益を兼ねた伝統工芸品としての南部裂織の復興の素地となったと思われます。

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