2009年6月17日水曜日

01013■田道将軍は創られた?




第二部  蝦夷の創造

以上のことから、私は、律令制度と天皇専制権を確立した政府が、東北を侵攻(住民の奴隷狩り・土地の奪い取り)するに当たり、それを正当化し、理不尽さを覆い隠すために、まず、住民に「蝦夷」なる蔑称を付与した。それを基に侵攻を合理化し、開始した・・・。

が、今の今になってこうした非人道的な行動に出たとするのは、事があまりにもあらたか過ぎるので、「何時の世のこととも知れない天皇(景行)とその皇子の時代に、それは既に始められていたのだ。我々は、それを引き継いだにすぎない」として合理化した・・・。「お前たちは、昔から蝦夷であった、文句あるかと」と恐喝した。 ・・・つまり、奈良時代に入って「蝦夷」は作られたのであり、それ以前「蝦夷」は存在しなかった・・・と考えるのです。

勿論、景行天皇・日本武尊以後にも、「蝦夷征伐」の記録が無いわけではありません。例えば、

     
イ.「仁徳紀」五十五年条。「五十五年に、蝦夷、叛けり。田道を遣わして撃たしむ。」云々。

    
ロ。「舒明紀」九年(637)条。「是歳、蝦夷叛きて朝でず。即ち大仁(正五位相当)

かみつけののきみかたな  め
上毛野君形名 を拝して、将軍として討たしむ。」云々。





ところが、田道の名字は「上毛野」で、形名と同じ。「上毛野」は地名を名字(後述)としたもので、上毛野は今の群馬県域で、そこの豪族。

架空の景行天皇や日本武尊の頃から、群馬県域をふくむ東国に住む人間は、東北と同じく「蝦夷」と呼ぶことにされておったのです。

※ 関東地方北半部は、その昔、「毛
(ケ)のクニ」と呼ばれていました。それが、大和政権に服属するようになると、あまりにも範囲が広すぎるので、上毛野・下毛野に分割されたのです。

吉備
(キビ)のクニが備前・備中・備後に、越(コシ)のクニが越前・越中・越後に、筑紫(チクシ)のクニが筑前・筑後に、豊(トヨ)のクニが豊前・豊後に分割されたのも、同じ理由によります。それには、同族意識を断ち切る狙いもありました。

すると、田道も形名も蝦夷ということになります。これでは、蝦夷が蝦夷を討つことになり、仲間同士の喧嘩にしか過ぎなくなります。

  かみつけの      しもつけの             かみつけ しもつけ
※ 上毛野(群馬)・下毛野(栃木)は、後に「上野」「下野」と表記が変わります(その理由は前述)。更に後には読みがカミツケ・シモツケに変化。

表記変更前の「毛」に注意しましょう。「毛人
(もうじん)」は、蝦夷創造以前の東国人につけられた蔑称です。「毛」には、「異(け)」の意味も含まれます。
そうすると、田道も形名も名前の上からも蝦夷であったことになるのです。




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(まとめ)
・結論が、田道は上毛と蝦夷創造以前からの東国人で、蝦夷であった。
・蝦夷が蝦夷を討つことになる。
・ましてや、ピンポインで鹿角討伐に行くはずがないと思われます。

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