2009年6月17日水曜日

01012■四道将軍とは



四道将軍           
参考:(株)平凡社発行工藤雅樹著「蝦夷の古代史」ほか  
 
〈四道将軍〉
 『日本書紀』には崇神スジン天皇の時に、いわゆる四道シドウ将軍を派遣した記述がある。
 これは崇神天皇が神を祭ったと云う話(この話から後に「崇神」と云う、中国風の漢字 二字の諡号シゴウ(おくり名)が付けられた)を承けて、なお各地には天皇の教えに従わ ない者が居るので、四方に将軍を派遣することになった。

大彦命オオヒコノミコトを北陸に、武 渟川別タケヌナカワワケを東海に、吉備津彦キビツヒコを西海に、丹波道主命タニハノチヌシノミコトを丹波に派 遣したとされる。 

   
『古事記』では、大毘古命オオヒコノミコトを高志道コシノミチに、その子の建沼河別命タケヌナカワワケノ ミコトを東方十二道に遣わして、「まつろわぬ人ら」を和平せしめ、日子坐王ヒコイマスノオオキミを 丹波タニハ国に遣わし、玖賀耳之御笠クガミミノミカサを殺させたとある。

そして次いで『古事記 』には、   
 故カれ大毘古命は、先の命ミコトの随マニマに、高志国コソノクニに罷マカり行イマしき。爾ココに東  ヒムガシの方カタより遣マけつる建沼河別、其の父大毘古と共に、相津アヒヅに往き遇ひたまひき。故れ其地ソコを相津アヒヅ(今の福島県会津と云う)と謂ふ。是ココを以て各オノモオノモ  遣けつる国の政マツリゴト和平コトムけて、覆奏カヘリゴトマヲしたまひき。爾カれ天下アメノシタ太平  タヒラぎ、人民オホミタカラ富み栄えき。是に初めて、男弓端之調ヲトコノユハヅノミツギ、女手末之調  ヲミナノタナイエノミツギを貢タテマツらしめたまひき。

故れ其の御世を称へまつりて、所知初国之  ハツクニシラシシ御真木天皇ミマキノスメラミコトと謂マヲす。又、是の御世に、依網池ヨサミノイケを作り、又  軽カルの酒折池サカヲリノイケを作らしき。この天皇、御歳ミトシ壱佰陸拾捌歳モモチマリムソヂヤツ。〔戊  寅年ツチノエトラノトシの十二月シハスに崩カムアガりましき。〕御陵ミハカは山辺道勾之岡上ヤマノベノミチノ  マガリノヲカノウヘにあり。   と記述されている。  

 
〈古四王コシオウ神社〉 参考:堀書店発行「神道辞典」  旧国幣神社。鎮座地秋田市寺内字児桜。祭神武甕槌命・大毘古命。例祭五月八日・九月 八日。  大彦命が北陸巡撫の際、北門の鎮護として武甕槌命を奉祀、次で大彦命を合祀、中世 秋田城鎮守古四王大権現と称す。 

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(まとめ)
・日本書記では大彦命(オオヒコノミコト)は北陸へ
・古事記では大毘古命(オオヒコノミコト)は高志国(越後のこと)
・四道(シドウ)将軍とは個人名でなく、四つの街道のことだようです。
従って、田道(タミチ)将軍は関係ないようですね。
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